更新 2005年6月14日
バラ バラ バラロンドン郊外から飛び立ったヘリコプターは、猿、中丸、ミスターＸを乗せて、抜けるような青空の中、西へと向かった。抜ける様な青空、とはいえそこは所詮北国イギリス、南国の鮮やかな青空とは比べるべくもない。僅かにくすんだ感じがあり、太陽の光も何処かよそよそしい。その青空と眼下に広がる町並、田園風景に潜む一抹の暗さの原因は、大方イギリス元来の風土に帰するべきだが、その日に限っていえば、そこにはもう一つ原因があった。ソールズベリー大聖堂を眼下に見下ろしてから暫くすると、猿たちの目の前には広大な麦畑が広がった。色褪せた緑一色の絨毯の如く見えたその麦畑には、注意深く見るとあちこちに微妙な凹凸があり、それらは奇妙な幾何学模様を成していた。
ミステリーサークル。それは主にイギリスの穀物畑で見られる現象で、一部の領域の作物が倒され、その領域が様々な形状を成したものである。一九七〇年代頃から報告され、一九九〇年代に最も注目を浴びた。原因として、イタズラ説、自然現象説、宇宙人説などがあるが、一九九〇年代に自分達がミステリーサークルを作ったという人物が現れ、イタズラ説が優勢となった。しかし、宇宙人説は今なお一部のサークル専門家やサークルファンによって根強く支持されている。原因はともかく、ミステリーサークルは年々意匠を凝らした複雑な形状のものが増えており、観光スポットとしても人気があり、観光ツアーも組まれているほどである。
中丸は上気して言葉を継いだ。
「僕は、無批判に宇宙人説を採るわけではありませんが、数多あるミステリーサークルの中には、イタズラではなく、現代科学では説明のつかない神秘的なものがある、と思いたいんです。シェイクスピアの『ハムレット』の中にもあるように。
馬鈴薯、天とお前たちのいる地下の間には、お前たちの哲学では及びもつかない出来事がまだまだあるのだ」猿は、何だか今まで知らなかった中丸の一面を見たようで、ちょっと怖くなった。そこで、場を和ませるようにミスターＸがツッコミを入れた。
ヘリコプターから麦畑に降り立って、猿は黒い物体の正体を目の当たりにした。それは、黒いマントを全身にまとい黒頭巾をすっぽり被った男であった。男はサイス（両手で柄を持って作物を刈る大鎌）を握りしめており、正に西洋の死神のイメージにピッタリであった。
「猿君、君は以前私の組織の死神、日影と対戦したことがあったろう。あの日影の亡き後、彼が死神二代目を襲名したのだ」
「死神二代目！」
猿の脳裏に、大海浜カントリーアマチュア選手権での日影との闘い、そして崩山カントリーでの彼の死が甦った。そして、目の前の死神二代目に死神初代の姿がダブった。実際、二代目は初代と似たような背格好であった。猿はその顔も確かめたかったが、二代目は黒頭巾を深々と被っていたのでそれは適わなかった。
「フフフ……、猿君、よろしく」
二代目が言った。
例によって、ミスターＸが試合方式を説明した。
「このコースは第三ホールまでしか作っていないので、三ホールでのストローク・プレーとする。第三ホールまでで決着がつかない場合は、再び第一ホールから始めてサドンデスとする。賞金は百五十万円、負けた方が勝った方に払う。更に負けた方は、今回のイギリス旅行の必要経費を全て負担すること」
「何や、このイギリス旅行は招待かと思ったのに、随分ケチくさいんやな」
「フフフ……。最近は不景気でね。我々も苦しいのだよ。例えば、このヘリコプターのチャーター代も馬鹿にならないのだよ」
「まあ、わいが勝つんやから、どのみち費用を持つのはそっちや」
猿は自身満々に言った。
第一ホール、四二〇ヤード、パー四！
このホールは、サークルが数珠のように連なり細いフェアウェイを成していた。フェアウェイは、まず左に大きく曲がって次にまた右に大きく曲がり最後にまた左に曲がる、という具合に極端に蛇行していた。猿がオナーとなり、先ずティ・ショットと打つことになった。
「かっ飛ばしたいとこやけど、下手してコースを逸れると麦の立っているラフに入ってしまう。よっしゃ、二番目の曲り角のところからコースなりにスライスするボールを狙ってやるぞ」
ヒュウ ドキャッ ギューン「ああ、曲がり切らない！」
次は死神の番であった。彼はボールをティ・アップすると、突然握っていたサイスを振りかぶった。
バッ ビュオン バキン死神はなんとゴルフクラブの代わりにサイスでボールを打ったのだ。ボールは高い角度で飛び出し、大きな弧を描いて二番目の曲り角と三番目の曲がり角の間にピタリと止まった。
キュイーン ズドッ ドッ
猿は自分のボールを探すため、一行より先に走っていった。
「あった、あった、わいのボールフェアウェイの上にあった！」
ラフの麦の茎にうまい具合に当たったのか、猿のボールは辛うじてフェアウェイの上にあった。フェアウェイといっても麦を倒したものであり、決して打ちやすい状態ではなかった。
「中丸、クリークを！」
猿は、クリークで高いボールを打って、見事ツーオンを決めた。
一方死神のボールは猿より少し先の位置にあったが、倒された麦に食い込んでいて、猿よりその意味で状態が悪かった。
ビュオン バキン柄の長いサイスの風を切る音が大きく響いた。サイスは倒された麦を切り刻みながらボールに当たり、ボールは難なく空へと舞った。だが、ボールは僅かショートして、グリーンの一つ手前のサークルで止まってしまった。しかし、不思議なことに、死神はあまりがっかりした様子を見せなかった。もっとも、その深々と被った黒頭巾の下の表情を窺うのは困難ではあったが。
死神第三打目。死神はその黒マントの懐からシックル（柄を片手で持つ小さい鎌）を取り出した。旗の位置を見定めながら、死神はシックルを左手一本で握って振り抜いた。
ヒュッ スカッ シュルルルル ストッ トッ カッコーンなんと死神のボールはチップインしてしまった。死神は計算通りとでも言わんばかりのすました様子であった。これで、先にツーオンした猿の方が逆に打ちにくくなってしまった。
グリーンに足を踏み入れて、猿は唖然とした。グリーンは芝ではなく、フェアウェイと同じく麦を倒したものであったのだ。猿のボールは旗から三メートルの位置にあった。麦は旗を中心に渦を巻くように倒され、丁寧に敷き詰めるように倒されているものの、通常のグリーンに比べると凹凸が激しく、ラインなど読めたものではなかった。猿はここで、死神が第二打でショートしたのではなくわざとグリーンにオンするのを避けたのだ、と気がついた。猿は名パター正宗を握って心を決めた。
「ここは、凸凹に負けないよう思いっきりストレートに打つしかないな」
チィィィーーーンン ズザザザザ「ああっ、あれでも弱い！」
猿四打（パー）！ 死神三打（バーディ）！
猿〇！ 死神一アンダー！
第二ホール、二三八ヤード、パー三！
第二ホールは、ミステリーサークルの基本形である円の領域が一つあるのみで、そこがグリーンになっていた。その他の場所はすべてラフであった。死神は、再びサイスに持ち替えて長い黒マントを翻し、ティ・ショットを打った。
バッ ビュオン バキン死神のボールはグリーンの手前のラフに突っ込んでしまった。しかし、死神は全く動揺を見せなかった。もしやこれも作戦なのか、と猿は思った。しかし、いくら凸凹グリーンを避けるためとはいえ、麦の生い茂るラフにボールを落とすのは猿には躊躇われた。 距離はあるが、ドライヴァーで何とか高くあがって旗そばにピタリと止まるボールを打つ作戦に猿は出た。
シュルシュルシュル ズサッ
ドピュッ バシッ上空ではかなり風も吹いているらしく、猿は二メートル程度の距離を旗から残してしまった。
キュルキュルキュル ズドッ
ザッ ザッ ザッ一行はラフの麦畑の中を進んでいった。中でも背の低い中丸は、頭が漸く穂の上に出る程度なので、進むのにかなり難儀した。死神のボールはラフのど真ん中にあった。
猿は、ここを何とか一パットで決めて死神に追いつきたかった。
「ン！さっきはサークルの凸凹に逆らって失敗したんや。今度は、渦巻いて麦を倒した流れに乗せるように打ってみよう！」
チィーーィィン ツツツ カッコーン「やった！バーディや！」
猿二打（バーディ）！ 死神三打（パー）！
猿一アンダー！ 死神一アンダー！
第三ホール、六六六ヤード、パー五！
ミスターＸがこのホールの説明を始めた。
「このホールは三日月または鎌のように左に大きく曲がったロングホールだ。コースの左側に離れてサークルが一つ作ってあり、そこを中継すればショートカットでグリーンにツーオンできる可能性がある。ただし中継のサークルまで三〇〇ヤード近くあるから、そこまで飛ばしてなおかつ止めるのは至難の業だろう。猿君、どうするかね。ショートカットを狙うかね？」
「兄さん、ミスターＸの挑発に乗るな！」
中丸が注意した。
「わいは、ショートカットを狙うで、中丸！さっきの死神のショットを見れば、わかるやろ？あいつはラフでもあの鎌を使って平気で打てるんや！あいつは中継サークルに関係なくショートカットを狙ってくるやろ。そしたら、わいもショートカットを狙わなくては勝ち目がないということや！」
「でもどうやってあのサークルに……」
「まあ、見てろや！」
ギリギリギリ ドガッ ギャーンン「ものすごく低い弾道のスーパーショット！そうか、あれで落ちる手前で麦の穂にこすれてブレーキがかかって、ちゃんとサークルで止まるんだ！」
ザザッ ザザッ ザザッ ザザッ
次に、死神はショートカットを打つ方向にスタンスをとり、サイスを思いっきり振ってティ・ショットした。中継サークルには届かなかったが、それでも二百五十ヤードは超えていた。猿と死神は第二打を打つためラフの麦畑に入っていった。
「中丸君、我々はフェアウェイをたどって、グリーンで待つことにしよう」
ミスターＸが言った。中丸は猿が心配であったが、猿が「大丈夫，大丈夫」と言うので、ミスターＸに付いていくことにした。猿と死神は麦畑を分け入って進んだ。死神のボールの落ちた辺りの場所で死神が言った。
「私はこの辺で自分のボールを探すから、猿君は先のサークルの方に行っててくれたまえ。私はボールを探すのに時間がかかるかも知れないから、先に二打目を打ってくれても構わないよ」
猿は自分のボールがちゃんとサークルにオンしたか気になって、死神の言葉を受けて先を急いだ。果たして、猿のボールはサークルの中にあった。
「死神はーん、わいのボール、サークルに乗ってたで！」
猿は数十メートル後ろで麦に隠れて殆ど姿の見えない死神に向かってはしゃいで言った。一方、死神は麦の陰から不気味な微笑みを浮かべながら猿を見ていた。
「フフフ……、喜んでいられるのも今のうちだ、猿君よ。実は、私の使命は君と勝負することではない、君を事故に見せかけて再起不能にすることなのだ！スウィングですっぽ抜けたことにして、このシックルを君に命中させるのだ！」
死神は、猿が次の一打のスタンスをとる姿にシックルの狙いを定め、そして投げつけた……。
シュルシュルシュルシュル猿は自分のショットに集中しており、死神の挙動には気がつかなかった。猿はグリーンめがけて二打目を思いきり打った。
ギリギリギリ ドギャッ振り抜いたドライヴァーに衝撃が走った。何かがぶつかったのである。それは死神のシックルであった。シックルは猿のドライヴァーに当たって高く舞り、死神めがけて飛んできた。よけようとした死神は何かを踏んづけ滑って、足元を取られた。
バキン
「猿君、俺はもうダメだ。助けを呼んでももう手遅れだろう。それより猿君、聞いてくれ。俺は兄貴がまだプロゴルファーを目指していた頃、兄貴をとても尊敬していたのだ。兄貴は小さい頃からすごく優秀で、しかも何事にも努力を惜しまず、俺の理想、憧れだった。プロテストにも間違いなく合格するだろうと思っていた。しかしプロテストに落ちて、それから兄貴は俺の前から姿を消してしまった。風の噂でゴルフの殺し屋死神になったなどと聞いていたが、俺には信じられなかった。俺が兄貴に再会したのは、兄貴が棺に入って戻ってきたときだった。そのときミスターＸに初めて会って、兄貴が猿君に敗れて死んだ、と聞いた。復讐の気持ちに燃えた俺は、ミスターＸに誘われるまま、影のプロゴルファー組織に入った。いつか俺が猿を倒すと誓ったのだ。だが、組織に入って暫くして、俺は気がついた。兄貴をダメにしたのは、殺したのは、この組織なのだと。しかし、そのときは既に遅く、俺もミスターＸの飼い犬になって、いつしか死神二代目と呼ばれる影のプロゴルファーにまでなってしまった。そして、念願の猿君との対決が適ったわけだ。勘違いしないでほしいが、俺はもう猿君に恨みなど無い。ミスターＸの言いなりになって君の命を狙ったことに嫌気がさしているくらいだ。
俺は、兄貴を優秀だと思っていたし、影の世界でも兄貴と同じくらい力のあるゴルファーを何人か見てきた。しかし、彼らには何かが欠けていたのだ、表舞台に出るための何かが。猿君、君と対戦して分かった。君には彼らの持っていなかった強さがある。君は陽の当たるところで活躍できるゴルファーだ。きみならきっとなれる！日本一のプロゴルファーに！」
「日影……あんたの兄さんも同じこと言ってくれたんや！」
「そ……そうか。兄貴……、もうすぐ俺もそっちへいくぜ！」
日影の弟は目を閉じて、そのまま動かなくなった。
日影兄弟には欠けていたが、猿にはある強さとは何なのか。猿自身もそれが何なのかはっきりは分からなかった。ただ、この悲運の死を遂げた兄弟のためにも、プロゴルファーとして表舞台で大観衆の前で栄冠を手にしてみせる、と猿は誓いを新たにしたのだった。