更新 2022年11月2日
イラスト：玉生洋一
満賀道雄は両国の飲み屋で飲んでいた。
上京してきてこれまでまんが一筋だったので、飲み屋に入ったのは初めてだった。優しそうなおかみや気さくな常連客達に話しかけられて、内気な満賀も珍しく饒舌になっていた。そして上京前勤めていた立山新聞社の先輩と飲んべえ小路ではしごしたことを思い出していた。何で新聞社を辞めてしまったのかな、そんな思いがふと頭によぎった。
順風満帆かと思えた両国でのまんが家新生活だったが、ここにきて翳りが見え始めた。共にまんが道を歩んできた才野茂が体調を崩してここ数日寝込んでいるのであった。
万が一このまま才野が回復しなかったら……おれはこれからまんが家としてやっていけるのだろうか。二人でいれば、話し合ったり競い合ったりしてまんがの案も色々出てきた。才野に遠慮して一人で散歩しながら案を出そうとしていたのだが何も思い浮かばず、ついサボって飲み屋に入ってしまったのだ。そして店を出た後は才野と二人の公金に手をつけてしまったことの後ろめたさが残った。
トボトボ歩く満賀に黒尽くめのスーツを着た男が声をかけた。
「別の店で飲み直しませんか？」
その男に腕をつかまれ、満賀は強引に裏通りのバーに連れ込まれた。そこで男が差し出した名刺には「友愛事業団外務主任 喪黒福造」と書かれてあった。
「友達との共同のお金を使い込んでしまったことで友情にひびが入ってしまわないかと不安なのでしょう」
なぜそんなことを知っているのか、との満賀の驚きが収まらぬ内に喪黒は話を続けた。
「友情が壊れないためのお手伝いをしますよ。あなたに千円お貸ししましょう。それを元手にそこのテーブルに座っている男と賭けトランプをするのです。儲け分は差し上げますので」
「僕は今まで賭けなんてやったことないんで……」
「大丈夫です。自信を持つのです！」
喪黒に人差し指で指されて、満賀はその気になってしまった。テーブルに座っていた男はチョビ髭を生やしていてヒットラーに似ていた。ゲームはブラック・ジャック、俗称ドボン。簡単なルールの説明を受け、満賀はまず百円を賭けてみた。満賀の手札はスペードのエースとジャック。
「あの…こういうのはどうなんですか？」
「おーすごいっ!!それはブラック・ジャックじゃないですか!!」
ヒットラー似の男は興奮した声で叫んだ。賭け金は千円になって返ってきた。その後も満賀はつきまくり手持ちは一万円を超え、元手と飲み代を差し引いても十分余裕があった。満賀は上機嫌でバーを出た。
それから三日後。才野の体調は一向に回復しないし、まんがの案も進まなかった。賭けで儲けた分ならいいだろう、と満賀の足はまた飲み屋の方に向いた。そしてまたお金が足りなくなり、例のバーの扉を開いた。ヒットラー似の男は同じテーブルに座っていた。
「ドッボーン！」
今度は駄目だった。満賀は有り金を全てすってしまった。いつの間にか満賀の横に立っていた喪黒が話しかけた。
「おやおや、この前はせっかく助けてあげたのに。まあいいでしょう。友情の証にもう一度だけ助けてあげましょう」
喪黒は満賀を別のテーブルに案内し、そこで黒い覆面の上にサングラスをかけた男に引き合わせた。
「満賀君！私の組織に入って、影のプロ漫画家にならないかね？」
「影のプロ漫画家!?」
「そう！大手出版社主導の少年まんがとは全く別種の影の漫画というのがあるのだ！満賀君も渾身作『海抜六千米の恐怖』や『砂漠の牙』を少年まんがらしくないと編集者に批評されて内心不満に思っているだろう。新漫画党のメンバーも寺田ヒロオを初めストイックな優等生ばかりで窮屈にも感じているのではないか？影のプロ漫画家は、少年まんがでは描けない闇の世界、理想から外れたいい加減でだらしない人間の本性を制約無く描けるのだ！特殊な販売ルートがあり、原稿料も高額だ。満賀君には一ページ一万円で四ページの短編を描いてほしい！ペンと紙はここに用意してある。締切は明日の朝十時だ！」
金額は魅力的だったが、案からやってストーリーやコマ割りを決めなくてはならないし、とても間に合わない。横からまた喪黒が満賀を人差し指で指しながら迫ってきた。
「ストーリーもコマ割りも決めずに描き出すのです！何でもいい。先日飲み屋でおかみさんや他の客と喋った話、聞いた話。ご覧なさい、このバーにも色んな客がいます。彼らを観察して、インスピレーションの赴くままに描くのです!!」
店内の薄暗さでそれまで気がつかなかったが、よく見るとデーブル席やカウンター席には様々な客がいた。麻雀をしている男達、ルネ・マグリットの画集を見つめている男、人間離れしてドラキュラ、狼男、フランケンシュタインの怪物のような風貌をした三人組等々……。
「さあ、描きなさい。ドーン!!」
あれから三週間後。満賀は影のプロ漫画家として読切を四本こなし、今や連載を依頼されていた。才野は肺浸潤と診断され両国の病院に入院して二週間が過ぎていた。入院費・薬代は影の漫画の原稿料から払っていたが、才野には下宿の親戚に借金したり細かいカットの仕事をしたりして工面したことにしていた。これまで何でも話し合ってきた才野に対して秘密を持つことは満賀にとって心苦しかったが、致し方のないことだった。
影の漫画は二人で目指してきた少年まんがとは方向性があまりにも違っていた。一方で、満賀にはこんなものも書けるのかという新しい自分を発見した喜びも確かにあった。それでも、影のプロ漫画家は才野が退院するまで、と満賀は心に決めていた。
二日に一度は才野を見舞っていた満賀であったが、ここのところは連載第一回目の準備に忙しく、その日は三日空けての見舞いとなった。 「才野、具合はどうだい？」
扉を開けた先の病室のベッドの上に才野の姿は無かった。枕の上には影の漫画の月刊誌と一通の手紙が置いてあった。
「満賀へ
もう別れよう
才野」
言葉少ないが、満賀には全てが伝わった。満賀が病院を飛び出すと、外は土砂降りだった。雨に濡れ、泣きながら満賀は叫んだ。
「才野ーッ!!
才野ーッ!!
才野ーッ!!
才野ーッ!!」
「おい、満賀！どうしたんだ。うなされて」
才野に揺すられて、満賀は目を覚ました。そこは両国の下宿の二畳間だった。
「あれ、才野、何でここにいるんだ。病気はどうなったんだ？」
「病気？ああ具合が悪かったのは、とっくに良くなったよ」
「夢だったのか……。何かとても変な夢を見たよ」
「へえ〜、どんな夢だい？まんがのネタに使えそうかい？」
「う〜ん、断片的にしか覚えてないし、あまりに奇抜すぎるし……無理かな。あるいは将来的には……」
「それはそうと、今日はトキワ荘に引っ越しする日だぞ！」
「そうだった！トラックが来る前に荷物を出しておかないと」
二人は互いの顔を見合わせて言った。
「いざ、トキワ荘へ！」