更新 2003年3月23日
「カーット」
監督の声が高らかに響いた。星野スミレのマネージャーが監督のところに駆け寄って、交渉を始めた。次のスケジュールの時間が迫っていて、映画のロケーションはここで打ち切らなければならなかった。監督もそこは心得ていて、スミレの方に振り向いて
「じゃあ、スミレちゃんはもういいよ」
と言った。スミレはおじぎをすると、マネージャーが急きたてる車の方へと駆けていった。
「次は新曲発表の記者会見、その後はグラビアの撮影ね」
車の中でマネージャーはスケジュールを読み上げた。
「記者会見の方だけど、例の落目ドジ郎との恋愛関係の質問が出て来るかもしれない」
「落目さんとは、何の関係もありません」
スミレはきっとなって答えた。仕事の疲れで少し苛立っていたのかも知れなかった。
「そう、その通り。そう答えといて。でもあんまり厳しい口調じゃなくね。この噂は何とか事務所の方で消しとこうと思ったんだけどな。火元はどこなんだろう。まあ、噂をたてられるのも仕事のうちだ。なんとか乗り切っていこう」
「新曲発表の記者会見なんだから、曲のことを聞いてほしいわ」
「いやあ、アイドルやスターというのは、ただの歌手や女優とは違うんだよ。歌手は歌がうまければいい、役者は演技がうまければいい。でもアイドルはね、人間全体が魅力的じゃなきゃいけないんだ。スミレは歌にも演技にも一所懸命だから、そっちでも評価してもらいたいんだろうけど、ファンはね、歌や演技より、スミレの存在そのものに関心があるんだ。スミレはスミレであることそのものが仕事なんだ。プライベートなことも色々聞かれるかも知れないけど、その辺をしっかり自覚して答えてね」
マネージャーが少し熱っぽくアイドル論を語るのを聞きながら、スミレはぼんやりと考えていた。
皆そんなに私に関心があるのかな。私の私生活なんてちっとも特別じゃないのに。
「休日の午後は何をしていますか」
ここ半年は休日なんてなかった。
「普段はどんなものを食べていますか」
お仕事が忙しくて、ゆっくり食事する暇もないわ。今日も昼は多分ラーメンか何か。皆そんなことが知りたいのかな。
しかし、一方でマネージャーのいうこともスミレには理解できた。それになにより彼がその仕事に誇りを持っているのを、スミレは感じとっていたし、自分にもスタッフそしてファンの期待に応えたいという気持ちがあった。私はちっとも特別じゃない。でもそんな私とスタッフとが作ってきた「星野スミレ」という世界に、夢や幸せを感じてくれる人がいるのなら、私のやっていることは無駄じゃないんだわ。
車はやがて止まり、スミレは気をとり直して、車から降り記者会見の会場へと向かった。
その日の夜、疲れて自宅に帰って来たスミレを、ある男が待っていた。今日の記者会見で恋愛相手とされた二枚目スターの落目ドジ郎だった。
「すぐに帰ってください!!」
「冷たいこといいなさんな。恋人が訪ねてきたのに」
落目は厚かましくも「恋人」と言ってのけた。
「あなたを恋人にした憶えなんかありません!!」
スミレの毅然とした態度に怯む様子も全くなく、落目はニタニタしながら言った。
「来週の週刊誌を見てごらん。二人は前から結婚してたって書いてあるから」
「あなたね。勝手な噂をいいふらしているのは」
落目はいやらしい目つきでスミレににじり寄ってきた。
「いいかげんに僕の気持ち分かってよ。でないと、もっとひどい噂をばらまくから」
その時、
「ウオーッ、ウ、ウ」
と吠える声がして、巨大な犬の影が部屋の壁に映った。
「ギャーッ!!」
とドジで間抜けな落目は驚いて、不様な恰好で逃げていってしまった。その声と影の主は、眼鏡をかけた少年と青くて丸い変な生き物だった。
「この影を映したんだよ」
と少年は犬を形どった両の手をスミレに見せた。少年の瞳の中に、スミレは記者達や自分の追っかけファンの目の中にはない何かを見た。この少年は自分を特別な目では見ていない。スミレは久しぶりにそんな瞳に出会った。この前に見たのはいつだったろう、そう……あのとき以来。気がついたときスミレは二人を部屋に招いていた。
「入っていいんですか？」
変な生き物が言った。そして少年が言った。
「疲れているのに悪いや」
「疲れているからお話したいのよ」
星野スミレは、それまで誰にも話したことのない秘密を二人に話した。遠い遠い国にいる、好きな人のことを。二人が帰った後、スミレはロケットに手をやり、その中の写真を見つめてつぶやいた。
「ミツ夫さん……」
「カーット」
という声が高らかに響いた。その声の主はあの落目ドジ郎だった。
「どうだったい。僕の驚きぶりは。なかなかのもんだったろう」
「うーん、ちょっと大味だったわ」
「ありゃ、これは手厳しいね。しかし、スミレちゃんも大変だね。『パーマン』や『ドラえもん』のマンガの中の世界ではアイドルを演じて、一方でマンガの読者の世界では恋人を待っている女を演じて。二重アイドルだね」
「ええ、でもこれがお仕事だから。それで、希望を感じたり、勇気づけられたりする人がいるのなら、私もやりがいを感じるし、幸せだわ」
「仕事熱心だなあ。それもいいけど、やっぱり息抜きも必要だよ」
落目はさっきスミレを待っている間に空けたワインのボトルを手にした。察してスミレは言った。
「いま新しいワインを開けるわね」
おまけ・艶笑オチのオプション