更新 2021年7月4日
イラスト：玉生洋一
「シンシンシン」
素早く影が動き、どこからともなく飛んでくる手裏剣は次々と的を射止めた。影が突然高く飛び上がったかと思うと、伊賀の里の澄み切った青空に真っ赤な風呂敷がパッと開いた。その風呂敷の四隅を手足で掴み忍法「ムササビ」で颯爽と滑空してきた青年忍者は、頬の赤さに若干のあどけなさを残していた。
「スゴ〜イ!!」
見学していたちびっこ忍者達が歓声を上げた。そばにいた年老いた白いチャウチャウ犬が口を開いた。
「なかなかだけど、カン様はもっとスゴイんだワン！」
「獅子丸！余計なことを言うな。まあ本当のことだけどな。どんなに頑張っても兄上にはまだまだ敵わない」
その青年忍者服部心蔵の言葉に、ちびっこ忍者達は怪訝な顔をした。彼らは心蔵の兄服部貫蔵が天才忍者であったかつての姿を知らなかった。彼らの知る貫蔵は、ほとんど家に引きこもりたまに表に出てもボーっとしているうだつが上がらない男であった。
貫蔵がこのようになったのには、訳があった。彼の親友三葉健一が結婚した時、その妻となった夢子が貫蔵に健一と二度と会わないように約束させたのだった。夢子は、貫蔵がそばにいたのでは健一は自立できない、と考えたのだ。貫蔵は約束を承知して、真の理由は隠して、健一の目の前から消えた。そして、伊賀の里へ帰った貫蔵はあらゆる修行に身が入らなかった。
健一に会うまでは、厳しい修行に耐え自分の忍術を高めることそのものが貫蔵にとっての人生の目的であった。健一と一緒に過ごしていた時も、そのストイシズムを維持していると思っていた。だが健一から離れて初めて、全ては健一のためだったのだ、と貫蔵は悟った。お調子者の健一からあっけらかんと全幅の信頼でもって放たれる時として無理難題の頼み事、それを叶えようとする時にこそ磨き抜いた貫蔵の忍術の冴えが最も光り輝くのであった。もう健一を知らなかった頃には戻れない。貫蔵は心と技を捧げる先を見失い、魂を抜かれたようになってしまった。
貫蔵の父服部陣蔵は、
「忠臣は二君に仕えずの故事にもある通り、一度誓ったケン一氏との友情を守り通し自らの忍術を封印してしまうのは、忍者の鑑ともいえる」
と言いつつ、やはり父親としては貫蔵に元気を取り戻してほしいと気をもむのであった。
来日中の生物学者ケイト・オオアシ博士が、同行中の記者数名とともに行方不明になった。
オオアシ博士はウイルスの遺伝子情報の分野で新進気鋭の研究者で、最近暗号理論を応用してウイルスとワクチンをペアで生成する手法を考案した。開発に成功すれば、新種のウイルス・ワクチンペアを無尽蔵に作り出せる。一般に暗号の解読が困難なように、ウイルスの情報のみからペアとなるワクチンの情報を生成することは極めて困難になっている。この技術には軍事応用も考えられる。生成したウイルスが人体に有害であれば、それを無効化するワクチンを隠して敵地にばらまけば兵器になるし、ワクチン情報から莫大な財産を得ることも可能だろう。
オオアシ博士はこのウイルス・ワクチンペア生成の研究は国際的な公的機関の管理下で行われるべきと考え、その調整のために動いていた。ところが、強大な闇組織シャドウフィッシュがこの研究に目をつけて、博士を誘拐しこの技術を独占しようと企てた。この情報を察知して、各国政府は博士の保護に動き出し、日本政府も甲賀忍者に依頼しシャドウフィッシュの動向を探っていた。その任務のリーダーがケムマキケムゾウだった。彼はシャドウフィッシュの具体的誘拐計画の把握まではできたが、阻止することはできなかった。そして博士と共に誘拐された取材陣のメンバーにはカメラマンとして三葉健一も含まれていた。
オオアシ博士らが誘拐された夜、ケムマキは忍者装束を着て夢子のもとを訪れた。
「夢子ちゃん、実は俺は忍者なんだ」
「何を今更。小学生の頃から時々そんな格好見せていたじゃない。大体分かってたわ」
ズコーとこける仕草をしたかったところ、これから話すことの重大さを考え、ケムマキはそれを控えた。ケムマキは健一が行方不明になったいきさつを話せる限り話した。
「ケンちゃんはどこにいるの？助けられるの？」
「すまない！夢子ちゃん！」
「ケムマキくんが謝ることじゃないけど……」
「いや、謝らなくちゃならないのは、これから言うことについてなんだ……。実は博士の取材にケン一を同行させるよう仕組んだのは、この俺なんだ！」
「えっ?! 何でそんなことを……」
「シャドウフィッシュの計画を事前に掴むところまでは、俺にもできた。でもまともにやりあうには、あそこは相手が悪過ぎた。甲賀忍者が束になってかかっても多分勝ち目は無い。あそこに太刀打ちできる忍者がいるとすれば、それは唯一人……」
「……ハットリくん……」
その名前が夢子の口を衝いて出た。服部貫蔵のことである。
「そう。悔しいけど、ハットリの実力は認めざるを得ない。特に、アイツがケン一のために発揮する力は絶大だ。ハットリならオオアシ博士とケン一を同時に救い出し、更にシャドウフィッシュに打撃を加えることができる！」
「そのためにケムマキくんはわざと……」
「その通りだ。そして、謝るついでにもう一つ厚かましいお願いがあるんだ……。頼む！ハットリがケン一に会うことの禁を解いてほしい！」
夢子は暫く黙っていたが、やがて戸棚から一枚の紙を取り出し、ケムマキに見せた。それは離婚届で夢子の記名があり捺印済みであった。
「俺はここまでは……」
「いいの。これは大分前に書いたもの。私がハットリくんにケンちゃんに会わないように頼んだ理由は、半分はケンちゃんの自立のためだけど、もう半分は二人の間に私が入り込めないんじゃないかと怖かったから。ケンちゃんは私にベタ惚れだったし、押したり引いたりのテクニックで私に引きつけておく自信はあった。この離婚届も最初はその駆け引きのつもりだったけど、今じゃ半ば本気かも。ケンちゃんは純粋で悪気はないけど、その気持ちや求めるものの大きさには耐えられなくなってきたの。そばできびしく見ていればケンちゃんにはわがままで怠惰なところもあるし、そんなケンちゃんの本質も含めて丸ごと包み込めるのは、やっぱりハットリくんしかいないのね」
「その懐で包み込み甲斐があるのも、ケン一しかいないってことだな」
二人の間に再び沈黙が訪れた。それを破ったのはケムマキだった。
「こんな時だけど、夢子ちゃん、ケン一を諦めるんなら俺と付き合う気はないかい？」
「何を言っているの。昔からケムマキくんは私に親切にしたり好意を持っているように見せることはあったけど、あれは全部ケンちゃんへの対抗意識でしょ。自分が強くて優位なことを誇示したい。あなたも結局自分しか愛せないタイプの人ね。影千代ちゃんへの態度を見ててもそう感じたわ」
「影千代か。あいつはいつの間にか実力をつけて甲賀忍者猫の総元締め白猫斎の後継ぎ黒猫斎になって、俺の手の届かないところへ行っちまった。俺はあいつがいない寂しさを埋めようとしてるのかな。でも夢子ちゃんも俺と同類だろ。ハットリとケン一みたいに友情と信頼で満たされた世界の住人じゃない。駆け引きと自己愛で生きる者同士、お似合いじゃないか？」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょ」
冷静を装い夢子はガードをかけ、ケムマキも我に返った。
「おっと、そうだった。じゃあ、この紙切れは一応預かっていくよ。ありがとう。これがあればハットリを説得できる」
「ハットリくんに任せれば……、もうケンちゃんは大丈夫ね！」
「間違いない。俺も援護射撃するしな」
ケムマキと夢子は笑みを交わした。そしてケムマキは夢子の家を出て闇夜の中に消えていった。