更新 2003年4月29日
菊池と花田は親友だった。菊池は博識で思慮深い男で、理念を究めることを愛した。花田も信念は持っていたが、彼は思考よりは直感、理念よりは実践の男であった。二人は互いに自分にはない相手の特質を尊敬し合っていた。
ある日、二人は何かの折りに死後の世界について話し合っていた。理論派の菊池の方が寧ろ、死後の世界の存在を主張した。
「僕は、肉体の滅びた後の魂ないしは意識の永続性、優越性を論じているんだ。人間は死んで全てが終わってしまうのではない、人間の本質に関わる意識は不滅だといいたいんだ」
「でも、それは証明のしようがない。生きている我々に、それを感知できないことには。幽霊等はどうなんだ。あれは、その不滅の魂が現れたものというのか。俺に言わせれば、幽霊とかの殆どはインチキか見間違いだね」
「魂が必ずしも現世と繋がっている必要はないと思う。しかし、幽霊などという現象を通した表出はあり得るかも知れない」
「そうしたら、二人でこういう約束をするのはどうだろう。どちらか先に死んだ方が、魂なり霊になって相手の枕元に立つ。そして人間が死んだらどうなるかを相手に説明するんだ。そうすれば片方が死んだとき、相手が魂となって会いに来なければ、そんなものはないということが、少なくとも二人の間では納得できるだろう」
菊池は自分の論点がずれてしまったように感じたが、それはそうとしてこの提案は興味深く思われたので、そのまま花田とその約束を交わした。
それから何年か過ぎて、花田が突然亡くなった。その頃には菊池と花田は前よりは疎遠になっていたが、菊池は尊敬していた親友のために通夜に駆けつけ、葬式で弔辞を読んだ。帰宅してからも、あの花田が死んだということが、菊池にはなかなか実感できなかった。花田は菊池に比べれば、ずっと現実的、現世的な人間だった。その花田が自分より先にこの世を去ってしまった。そのことに菊池は納得できない思いで床に就こうとしたとき、気配を感じた。そしてそこには花田がいた。
「花田、君は生きていたのか」
と、菊池は思わず声をあげると同時に尋常ならざる空気を感じとった。花田は物静かに口を開いた。
「いや、俺は死んだのだ。俺は約束を果たすためにやって来たのだ。菊池、君は正しかった。魂というものは存在するのだ。現に俺は死んで、魂となって君の前に現れたのだ。そして死後の世界というのもある。俺はそこからやって来たのだ」
花田の腕からは血が濯いでいたが、それは床に染み入ることはなく、溜まるでもなく、流れては幻のように消えていった。それを見て菊池は、目の前の花田がこの世のものでないことを悟り、漸くあの約束を思い出した。
花田は生前と同じしっかりとした口調で話を続けた。死んだ後の死後の世界までの道のり、そしてたどり着いた死後の世界の様子を具に語った。菊池は途中で一度話を遮り、そしてメモをとっても構わないかと花田に尋ねた。花田は首を縦に動かしたが、そのとき口から血を吐いた。介抱しようと駆け寄る菊池を花田は身振りで止めた。生身の人間が魂に触れることは出来ないのだ。菊池は花田に尋ねた。
「花田、苦しいのか。魂になっても、痛みなどの感覚は存在するのか」
「ああ、魂にも感覚はある。君は肉体が滅びた後意識だけが残ると考えていたようだが、俺は死んだ後も肉体的感覚を持っている。生きているときとは少し違うが、別の新しい体をもらったようなものだ。」
菊池は花田のその新しい肉体の具合があまり良くないようなのが気になったが、花田が死後の世界のことについて話し続けるので、先ずはそれを書き取ることに専念した。
菊池はメモをしながら、ふと思いついた疑問を花田に投げかけた。
「しかし、何故今までこの死後の世界のことが現世に伝わらなかったのだろうか。我々のような方法は、今までにだってきっと他の誰かが思いついたに違いない」
「それは、死後の世界を抜け出すことが禁じられているからだ。この全身の傷は、そこを抜け出すときに負ったものだ。そして、一度外に出た者は永久に戻ることは許されない。また、死後の世界の秘密を現世に漏らした者には、罰が待っている。死すら恐れなかった史上のどの勇者をも臆させるような恐ろしい罰が……」
と言ったとたん、「うわあ……」という叫び声をあげて花田の魂は姿を消した。全く跡形も無く、血の跡も無かった。暫く茫然とした後、菊池は夢を見ていたのではないかと思ったが、手元には死後の世界について詳しく記したあのノートが確かにあった。
翌日の昼過ぎ、花田の息子と娘が全く原因不明に亡くなったという知らせを受け、菊池にはその心当たりがあった。これも花田への罰の一部なのではないだろうか。夫人の命が奪われなかったのは不思議であるが、もしかしたら血の繋がらない者には罪を問えないかも知れない。菊池は気落ちしている夫人を見舞って、罪滅ぼしのつもりで、その後も夫人に毎月お金を送った。しかし夫人はそこまでしてもらう理由はないと、いつもお金を返してきた。菊池は花田の行為を無駄にすまいと、ノートをもとに死後の世界について本にまとめ出版した。しかし、死後の世界の実像は言われてみればもっともというような自然なもので、数多あるオカルトの本の中で目立たず、注目もされなかった。菊池は自分も命を絶って花田に償いをしようと何度も考えたが、結局死ねなかった。菊池はその後結婚も道楽もせず、百二十歳まで生きた。